解毒される日常

遠くの星から眺める

the cabsのノスタルジア、過去を思い遣るということ

日本のロックバンドthe cabsがどうしようもなく好きだ。2013年に活動停止したのちの今に至るまで、自分のなかでその魅力が失われたことがない。

むしろ、バンドが解散して時間を経るごとに、その美しさは増したように感じる。2017年となっても。

それはまるで、いかなる思い出もやがて優しく美しいものに変容していくことに似ている。思い出は甘美であり、いつまでも思い出の海の中に浸ることを許してくれるかもしれないが、それは過去に過ぎず、"いまここ"に到来することはない。

 

the cabsの音楽は、聞き手に甘美な過去を走馬灯の様なものとして想起させる。それは聞き手固有の記憶というよりはthe cabsの世界観によってミキシングされた淡くぼんやりとしたものだ。そのような"風景"がthe cabsの音から、映像から、文章から立ち上がってくる。

そうして生成された回想的イメージは、時にクリーンなアルペジオとして、時に不安定な拍子として、時に慟哭として表現される。それらは、美しくおぼろげで"いまここ"に到来することのないものへと収斂していくのである。

 

ここで生起する感情は、いわゆるノスタルジー(郷愁)と同等のもののように思える。ノスタルジーwikipediaで調べると、歴史的には1688年にスイスの医学生ヨハネス・ホウファーによって作られた概念とされている。ノスタルジーは、2つのギリシャ語nostos(帰郷)、algos(心の痛み)を基にした合成語で、「故郷へ戻りたいと願うが、二度と目にすることが叶わないかも知れないという恐れを伴う病人の心の痛み」とされた。ここで、故郷を過去と読み替えることができる。過去は"過去であること"によって現在に現れないことを保証している。この”過去の過去性”とも言えるこの機能によって、慟哭(シャウト)が生まれるのだと思う。

 

さきほど、the cabsの音や映像や文章から立ち上がるイメージがあると述べたが、これはpvのことを指している。例えば、"二月の兵隊"のpvは映像制作までバンド(ボーカル)が担当しているので、参考になると思う。

youtu.be

このpvは、全体的にパステルカラーで構成され、断片的な映像が時にぼやけた状態のものを含みながら転換していく。影の効果的な使い方や文章の挟む手法などは見事だ。

pv終盤では畳み掛ける音と断片的な映像の切り替わりは、見る人に走馬灯のような印象を与えると考えられる。また、ポラロイドカメラで撮影したような日焼けした映像も、先ほど述べた回想的イメージの要因の一つだと思える。この映像スタイルは"anschluss"のpvでより顕著となる。

youtu.be

 

ここまでthe cabsのノスタルジックさが魅力の原点にあるということを述べてきたが、解散した今となってもここまで自分の中で求心力を持っているのには理由がある。

それは、このバンドの音楽を通じて"過去を思い遣る"ことができるからだと思う。

どんな人にも、ひどい思い出だったり、できれば思い出したくないのに現実に刻み込まれたものが少なからずあったりするものだ。震災の記憶もその一つだろう。そんな現実のなかで、我々は過去とも折り合いをつけながら生きていかなければならない。

the cabsの表現は、過去を思い遣る音楽だと思う。それは、これからの時代においてー色褪せているがゆえにー色褪せることのない価値と強度を持った音楽なのだと思う。

 

と、今更ながらthe cabsについて振り返ってみた。というより、勢いで感想的なものを書きなぐった。the cabsという現象についてはもう少し推敲の余地があると思っているので、また機会があったら批評的なものを書きたい。österreichについては過去のエントリで(雑多ながら)書いたので、ご参照ください。

終わり。