解毒される日常

遠くの星から眺める

11年前

Twitterが終わりを迎えそうな雰囲気を醸し出しているので、自分がTwitterに登録したときのことと、Twitterの思い出をメモしておこうと思った。といっても、途中でアカウントを消したり、ツイ消ししてしまって過去のツイートはもうないので、記憶スケッチになる。

自分がTwitterに登録したのは2012年の3月で、大学合格が決まって、上京する前に新しく買ってもらったスマホで、地元の公民館的なたまり場で友達と一緒に登録した。進学先の大学はインターネットおたくだらけのところだったから、Twitterが大学内のあらゆる情報の中で鮮度が高かったし、コニュニティーに属するうえでLINEと同時に必須なツールだった。

当時、うちの大学はリベラルアーツを推進し始め、池上Aや津田Dが教鞭を取り始めたころ。いま振り返ると、Twitterを介したコミュニケーションが一番盛り上がっていたころだったと思う。以降の学生生活も、Twitter抜きでは考えられなかったし、Twitterがあったからこそ楽しめた学生時代だったと思う。

ある日、「読書会やりてー」と呟いたら、同じように読書会をやりたいと言う同大学の方からリプライが来て、そこから非公認の読書会サークルを立ち上げて読書会を開けたのは良い思い出。最終的にコミケに出店すらした。この勢いは学生時代にしかできなかったと思う。

Twitterをやってて一番うれしかったのは、同じ音楽の趣味を持った人たちと交流できたことだと思う。地方の高校で、自分と共通の音楽の趣味を持つ人は誰も観測できなかったので、新譜が出たり、ライブがある度にTwitterで盛り上がれるのが楽しかった。

大学の授業でハワイに行くことがあった(意味が分からないかもしれないけど、そういう授業があったのだ)。早朝、ワイキキビーチでNijabesを聞きながら文字通りのchillを過ごしていたら、その日がNujabesの命日であることをTwitterで知って、なんだか朝焼けが余計に沁みた。その日一日はNujabesを聞きながら過ごした。今でも記憶に残っている。

そして、唐突だが、いまTwitterで一番アツいのは天竜川ナコンだと思う。

まとまる気配がないので、ここまで。

近況(2021年8月)

久しぶりに書く。
新しいツイッターアカウントは結局長続きせず消滅した。(後述の通り、その後、新しいアカウントを作った)
ここ1年くらいぼんやりしていたので仕事以外で長い文章を読めなくなった。というか、長い文を読むほどの集中力が持続せず、気を紛らすために短いエッセイや日記、現代詩などを読むようになった。特に現代詩は良かった。詩はこれまであまり馴染みがなく新鮮で、瞬間的な集中と弛緩をインターバルしながら一編ずつ読み進めることには、新雪の中を一歩ずつ踏み進めるような気持ちよさがあった。しかし、その景色には既視感があって、それはthe cabsを体験したときの、その時にもこのような景色を横切ったのだと思った。そういう点では、この体験は初めてではなく、あの歌詞カードに書き込まれていたものが私にとって「一番はじめの出来事」だったということになる。私は未だあの時から逃れられていない。
現代詩についてもっと知ることにした。谷川俊太郎の詩論や現代詩のアンソロジーから読み始めた。鮎川信夫黒田三郎入沢康夫などが今のところ特に良いと思った。今の書き手のことも知るために別のツイッターアカウントを作って、たまに自分でも書き始めた。ぼんやりしているよりはマシだと思う。

 

最近やってること/やったこと:
・英語、TOEIC900以上ほしい。
・ろくろ回し、出来上がるのは2ヶ月後くらい。
・仕事で無線の資格を取った方が良いという話になり、勉強中。
・カメラをX-E4に乗り換えようと思ったけど、3ヶ月くらい入荷待ちらしい。
・キャンプ行きたい。

共存する

およそ1年ぶりにはてなブログを開いた。まずサイトのデザインをシンプルなものにした。各記事のフォント・スタイルがガタガタになっていたからすべて揃えた。昔の自分の記事は学部生特有の尖りがあって面白い。
読んだ本の感想や日記をつけようと思って、ツイッターのアカウントを新しく作った。動機の90%は暇だったからで、残り10%がぼんやりとした焦燥感による。最近自宅でなんもしてねえって気分が少しあった。使い分けについてはあまり考えていないけど、なんとなく以下のような感じを想定している。


このブログ: 過去の記事置き場。ちょっとしたお知らせとか月録的な感じでたまに更新したいくらい。
ツイッター( https://twitter.com/yamakawa1205 ): 普段使い用。アカデミックの知り合いもこれを見ていて趣味的な呟きはノイズになると思い、もう一つのアカウントを作った。


もう一つのツイッター: 趣味的なことは全部こっちにする。今後はこっちで呟くことが多いかもしれない。→知りたい方は連絡ください。
 

最近の興味・関心:
・ゲーミングPCを購入したけど、届くのが4月になってからってことが分かって、もう一つ自作しようか考え中。
・ここ1年くらいで詩に興味を持ち始めて、色んな詩を読んでいる。万葉集から現代詩まで。積読が半端ないので、今年こそは...
・去年の今頃はKaggleで遊んでいたけど、最近はご無沙汰している。Deep LearningでB'zの歌詞を作詞するって記事を最近読んで、自分もその真似事をしてみたいなと思った。
・音楽の趣味はあまり変化がなく、好きな曲のプレイリストを車の中でローテーションしている。新しいものに触れたい。

遷移

 

 最近やっていること・興味のあること:

・家に居る時間が増えたので、ピアノを弾いている。あと、線形代数を友達と勉強している(zoomで)。学部レベルの数学は一通り復習したい。英語は勉強しなきゃいけないんだけど、あまり出来ていない。

・ひと昔前の小説やエッセイ・書評に興味がある。あと、(以前からよく読んでいたけど)作家の小説講義にも興味がある、書くことは読むことに影響するからよく考える。他にも積読がたくさんあるので、少しずつ読んでいる。

・音楽は相変わらず何でも聞いている。クラシックと邦楽とその他をローテーションで聞いたり、twitchでDJイベントの配信を聞いたり。今になってBase Ball Bearにどハマりして完全に高校生になってしまった。高校生じゃないときはオーラヴル・アルナルズとかを聞いている。フェスが軒並み中止になって悲しい。

・ここまで近況を書いていると暇を持て余した学生感があるけど、普通に社会人をしている。シフト勤務で生活リズムがない。今日は12時に寝て20時に起きた。仕事は(今のところ)毎日楽しい。夜中に起きていること自体は、大学の頃とあまり変わってないなと思う。生活リズムが亡くなって深夜ラジオを聞くようになった。creepy nutsオールナイトニッポン0はほぼ毎週リアルタイムで聞いている。

・数年ぶりに昔の自分の記事を読んで、あまりの若さと飢餓感と行き場のない熱量にちょっと恥ずかしくなったけど、これはこれでいいと思う。もうあんな文章は書けない。

終わり

邂逅

この休暇で読んだもの、詩集三冊、室生犀星のエッセイ、罪と罰
それだけ。

もっと沢山読めると思っていたし、家の棚には未読なままの本が堆く積まれている。
それはともかく、詩というものに自発的に触れたのはこれが初めてだった。最初に読んだのは「青猫以後」というタイトルの詩集。「アストロノート」という三部構成作品の一つめ。
この作家に出会えただけでも、この休暇を読書に費やしたこと(全然読んでないけど)に意義があったと思う。(この休暇で読んだ詩集三冊というのは「アストロノート」三部分のことだ。一気に買ってしまった。)

 

どこか昔、どこかでこんな風の散文、瓦解する詩とよびうるものを読んだと思った。それは中上健次じゃない方の「一番はじめの出来事」の歌詞カードに付されている文章、あの感じが一番近い。あるいはブログにも同じ匂い、呼吸がする。書き捨てのレベルに差こそあれ、僕はすぐに(いまだに)取り憑かれた(取り憑かれている)。
あの歌詞カードを見たときの感覚がかすかに残っている。その頃の自分はまだ高校生だった。あそこが原風景、自分の中に植え付けられた種だったんだと思う。

 

"シクレノンの花を大量に積んだタンカーがアフリカへ向かう。"


あの歌詞カードに書かれていたものは散文だったのだと、「アストロノート」を読んで確信し、解散したそのバンドの歌詞カードの続きを想像しながら、僕は自分のなかに生じた空白を埋めようとするだろう。あるいは育てようとするだろう、詩の擾乱によって芽吹いたかもしれない、なんらかの種を。

 

"見ているものでさえ、言葉でさえ、変わっていくのを二人は知っている。"

 

たとえそれが決して意味を生まなくとも。

波の行く先とアンティゴネー

 

ふと思い出したので書くが、数年前にSPECというドラマ主題歌の英詩バージョンである「NAMInoYUKUSAKI」を自分なりに翻訳したことがある。当時Youtubeで曲を聴いてこれは良いと思った際、コメント欄に投稿されていた訳文があまりにもお粗末だったからである。とはいえ、自分も他人のことを言えるほどの英語力があったわけではない(むろん今も)。同動画のコメント欄に当時の自分の訳文が載っているが、いま思い返して見ると冗長な表現が多く、微妙なミスもある。

例えば、サビの”Every time hoping it'd be the last time I'll have to say hello”は「いつだってこれが最後に出逢う場面だと願っている」みたいな風に”say hello”のニュアンスを残しておくべきだろうし、終盤の”The first hand that you can let go”は前後の文脈を考えると握り合っていない方の手を指しているような雰囲気をどこか感じる。

 


NAMInoYUKUSAKI

 

2017年末にSPECの劇場版を観た。その最後の場面、獄中でボロボロになった瀬文が眼を閉じ、死を超越し物質としての存在を失った当麻を想い、霊的な彼女の存在感に包まれる。すなわち、瀬文は現世で警察官に殴られまくり牢屋に入れられ”見放され”ながらも、瞑想と沈黙のなかで当麻に出逢い物語の幕が閉じる。

この瀬文の姿に、ギリシャ悲劇「アンティゴネー」における、地下に幽閉されながら死んだ兄を悼むアンティゴネーの姿が重なる。

SPECの物語の終盤において、瀬文は象徴的な死と現実的な死の間を生きている。生物学的・主体的には生きていながらも、象徴的共同体から締め出された、という意味で。そして、そのどちらにも位置していない当麻を悼むことができるのは、唯一彼だけである。死はいわば制度の問題であり、当麻が彼のなかで締め出されていないなら、彼女はまだ生きているのだ。ただ瀬文の世界のみにおいて。

the cabsのノスタルジア、過去を思い遣るということ

日本のロックバンドthe cabsがどうしようもなく好きだ。2013年に活動停止したのちの今に至るまで、自分のなかでその魅力が失われたことがない。

むしろ、バンドが解散して時間を経るごとに、その美しさは増したように感じる。2017年となっても。

それはまるで、いかなる思い出もやがて優しく美しいものに変容していくことに似ている。思い出は甘美であり、いつまでも思い出の海の中に浸ることを許してくれるかもしれないが、それは過去に過ぎず、"いまここ"に到来することはない。

 

the cabsの音楽は、聞き手に甘美な過去を走馬灯の様なものとして想起させる。それは聞き手固有の記憶というよりはthe cabsの世界観によってミキシングされた淡くぼんやりとしたものだ。そのような"風景"がthe cabsの音から、映像から、文章から立ち上がってくる。

そうして生成された回想的イメージは、時にクリーンなアルペジオとして、時に不安定な拍子として、時に慟哭として表現される。それらは、美しくおぼろげで"いまここ"に到来することのないものへと収斂していくのである。

 

ここで生起する感情は、いわゆるノスタルジー(郷愁)と同等のもののように思える。ノスタルジーwikipediaで調べると、歴史的には1688年にスイスの医学生ヨハネス・ホウファーによって作られた概念とされている。ノスタルジーは、2つのギリシャ語nostos(帰郷)、algos(心の痛み)を基にした合成語で、「故郷へ戻りたいと願うが、二度と目にすることが叶わないかも知れないという恐れを伴う病人の心の痛み」とされた。ここで、故郷を過去と読み替えることができる。過去は"過去であること"によって現在に現れないことを保証している。この”過去の過去性”とも言えるこの機能によって、慟哭(シャウト)が生まれるのだと思う。

 

さきほど、the cabsの音や映像や文章から立ち上がるイメージがあると述べたが、これはpvのことを指している。例えば、"二月の兵隊"のpvは映像制作までバンド(ボーカル)が担当しているので、参考になると思う。

youtu.be

このpvは、全体的にパステルカラーで構成され、断片的な映像が時にぼやけた状態のものを含みながら転換していく。影の効果的な使い方や文章の挟む手法などは見事だ。

pv終盤では畳み掛ける音と断片的な映像の切り替わりは、見る人に走馬灯のような印象を与えると考えられる。また、ポラロイドカメラで撮影したような日焼けした映像も、先ほど述べた回想的イメージの要因の一つだと思える。この映像スタイルは"anschluss"のpvでより顕著となる。

youtu.be

 

ここまでthe cabsのノスタルジックさが魅力の原点にあるということを述べてきたが、解散した今となってもここまで自分の中で求心力を持っているのには理由がある。

それは、このバンドの音楽を通じて"過去を思い遣る"ことができるからだと思う。

どんな人にも、ひどい思い出だったり、できれば思い出したくないのに現実に刻み込まれたものが少なからずあったりするものだ。震災の記憶もその一つだろう。そんな現実のなかで、我々は過去とも折り合いをつけながら生きていかなければならない。

the cabsの表現は、過去を思い遣る音楽だと思う。それは、これからの時代においてー色褪せているがゆえにー色褪せることのない価値と強度を持った音楽なのだと思う。

 

と、今更ながらthe cabsについて振り返ってみた。というより、勢いで感想的なものを書きなぐった。the cabsという現象についてはもう少し推敲の余地があると思っているので、また機会があったら批評的なものを書きたい。österreichについては過去のエントリで(雑多ながら)書いたので、ご参照ください。

終わり。

Aimerのinsane dream / us を聞いた。

とても良かった。どの3曲も素晴らしかった。

 

今日、新宿のタワレコをぶらついていたらTKが楽曲提供していると書いてあったので、そのままジャケ買いした。Aimerは残響のテロルのEDで初めて聞いて、それっきりだった。その時はハスキーで特徴的な声だなーという印象でそれからちょっと気になっていたので、今回ようやく彼女のCDに手を伸ばすことができた。それゆえに、Aimerに対して私のなかでは「誰か、海を。」の印象が前提にあって、バラード調なものが合うアーティストなのだろうと思っていた。この歌い手とTKの楽曲が合わさるとどんな歌になるのか、とても楽しみだった。

 

1曲目、insane dreamはワンオクのTAKAが楽曲提供している。そういえばしばらくワンオク聞いてないなぁと思いながら聞いていたけど、確かにワンオクのサウンドである。サビ(?)の日本語の歌詞と英詞が呼応している所のノリがまさに、という感じ。最近の洋楽の影響を受けているようにも感じた。バックの音楽がとても太く、これはこれでボーカルと噛み合っていて良いと思った。

2曲目、us。こちらは時雨のTKが楽曲提供をしている。これは本当に凄いと思った、終盤を聞いてて鳥肌が立つくらいに。仄暗く静かに曲が始まり捻じれて歪んだギターサウンドとボーカルの白く透明な声が混じり合っていく。終盤でそれらが激情的なサウンドへと収斂していく、この流れはTKのサウンドだなあと思った(とても良い)。TKの曲はたくさん聞いてきたけど、今回の曲は「地球」とか「宇宙」とかスケールが大きい。この大きい存在の下で「僕ら/私たち」が対比されることで、その存在の小ささが際立って見える。また、「この空の藍(アイ)が赤く染められているなんて」というフレーズが印象的だった。赤く染められているという言葉が指すのが血なのだと思って聞くと、そういうことなのかなと思ってしまった(何が)。

3曲目、toneはAimerオリジナルの曲。これは過去の自分と向き合う曲なのだろう。今の時点から過去の自分を眺めているような。この曲を聴きながら、そういえばワンオクはNobody's homeとかで過去と向き合っていたし、TKはソロ曲のいくつかがそういう曲だと思っていた。この3曲目を聞いて、今回のCDの構成がこの3人であることに何となく納得していました。

以上、久しぶりに曲を聞いてこれはと思ったので書きなぐりました。

これをきっかけに、Aimerの過去作も聞いてみようと思います。

 

 

と、久しぶりに日記を更新してみました(約300日ぶり!)。

最近はエレクトロニカを延々と聞いてました。matryoshkaとかkashiwa daisukeとか。

the cabs は最近めっきり聞かなくなってしまいました。が、ボーカルの方が元気そうなのは何より(?)です。

前回の更新までの間に、時雨のコンサートに二回行きました。コンサートはそれ以外だとクラシックで、リゲティとかブルックナーを聞きに行ったり。今年は武満のメモリアルな年なので、何か聞きに行きたいと思っている。