解毒される日常

遠くの星から眺める

緩やかな嘔吐

ここが天国か地獄か、といわれたらどちらかといえば天国なのだろう。

僕の周りにあるあらゆる関係性は白でも黒でもなくグレーなわけですが、今日一日でそのうちのひとつが限りなく白に近いグレーへと漂白されました、長い長い時間を経てかつあくまでも自分の中において。安直なことをいえば「時間が解決してくれた」ということでしょうか。あと、僕はどうやら自分の周囲の人間関係を把握するのが途方もなく遅いようです(この認識自体も遅いわけですが)。だから後になって人間関係のグレーさを感じるわけですが、やはり昔は若いし、今も僕らは若いということもまた同様に感じます。その若さは時間によって風化していったし、触れれば灰となって空に舞うさまが映画のワンシーンのように見え、ただそれだけがいつまでも走馬灯。

春は出会いと別れの季節。花粉の季節。花が命が芽吹く季節。この世の幸せを全て詰め込んだ様子で道を行く人々、徐々に膨らんでいく桜の蕾、少しづつ温度を取り戻していく土、ほか周りのありとあらゆるものから「緩やかな空気」が吐き出される。外界はその空気で充たされ、僕は圧死したような感覚に陥った。緩やかさが自分の認識や出力の感度を落としていき、それは毒となって自分の思考を蝕んでいっているようだ。厳しい寒さのなか炬燵とかストーブの前に居座っている時の暖かさとはまた違った「生暖かさ」がそこにはある。それはまるで泥の中にでも居るかのように自らの意識を弛緩させていき、息をする事すらままならなくなる。それはまた真綿で締められるようだとも思った。時間や空間の空隙に綿を詰めていく、一つは緩衝剤として、もう一つは忘れないように。この苦しさをいつまでも忘れませんように。

文章を書くことによって自分の感情の整理という名の独白をしているわけだが、やはりこれは安定に至る手段であって服薬に近い行為だ。しかしこれが記録という側面を持つ以上、過去との逡巡だったり沈殿した自意識の醜悪さという「病理」がそこには刻み込まれている。そして、この束の間の安定を得るや否や、その延長線上には「緩やかな嘔吐(要出典)」が存在し、その事後処理としていつまでもこの運動が繰り返される。ここまでくると、この行為そのものが一種の中毒作用を持ってくるわけで、最近はこの運動の起源というか、自分のなかで抱いていたものの輪郭をつかむ作業として「書く」ことがあるよな、とギリギリの舵とりをしている。

なんというか、文章を書く人/書こうとしている人はみなどこかで孤独さを感じているのではないでしょうか。共通の寂しさが互いを引き寄せてる、重力みたいに。