解毒される日常

遠くの星から眺める

波の行く先とアンティゴネー

 

ふと思い出したので書くが、数年前にSPECというドラマ主題歌の英詩バージョンである「NAMInoYUKUSAKI」を自分なりに翻訳したことがある。当時Youtubeで曲を聴いてこれは良いと思った際、コメント欄に投稿されていた訳文があまりにもお粗末だったからである。とはいえ、自分も他人のことを言えるほどの英語力があったわけではない(むろん今も)。同動画のコメント欄に当時の自分の訳文が載っているが、いま思い返して見ると冗長な表現が多く、微妙なミスもある。

例えば、サビの”Every time hoping it'd be the last time I'll have to say hello”は「いつだってこれが最後に出逢う場面だと願っている」みたいな風に”say hello”のニュアンスを残しておくべきだろうし、終盤の”The first hand that you can let go”は前後の文脈を考えると握り合っていない方の手を指しているような雰囲気をどこか感じる。

 


NAMInoYUKUSAKI

 

2017年末にSPECの劇場版を観た。その最後の場面、獄中でボロボロになった瀬文が眼を閉じ、死を超越し物質としての存在を失った当麻を想い、霊的な彼女の存在感に包まれる。すなわち、瀬文は現世で警察官に殴られまくり牢屋に入れられ”見放され”ながらも、瞑想と沈黙のなかで当麻に出逢い物語の幕が閉じる。

この瀬文の姿に、ギリシャ悲劇「アンティゴネー」における、地下に幽閉されながら死んだ兄を悼むアンティゴネーの姿が重なる。

SPECの物語の終盤において、瀬文は象徴的な死と現実的な死の間を生きている。生物学的・主体的には生きていながらも、象徴的共同体から締め出された、という意味で。そして、そのどちらにも位置していない当麻を悼むことができるのは、唯一彼だけである。死はいわば制度の問題であり、当麻が彼のなかで締め出されていないなら、彼女はまだ生きているのだ。ただ瀬文の世界のみにおいて。