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解毒される日常

the cabsと凛として時雨をこよなく愛する東京の学生の日記、聞いた音楽の感想とか。

凛として時雨「es or s」を聞いて思ったこと:時雨の分裂性とか

自分が何らかの感情・感覚を抱いた時に、それがどこから湧いたものなのか考えてみると、自分の中にもう一人"ほんとうの自分"のような存在が源泉としているように思えるかもしれないし、もしかすると自分の抱いた感情・感覚は余所から持ってきたものであってそれを自分のものだと錯覚しているのだとも思えるかもしれません。
そして、前者の"自分のなかに潜む存在"に近づこうとすればするほどその輪郭はぼやけていってしまい、その存在を上手く描くことはできません。

そういった"届かなさ"だったり"届かないことからくる葛藤"をこれまで凛として時雨は音楽として表現してきたのかな、と今作を聞いて思いました(以下、MUSICA9月号のインタビューより引用)。

まあ僕の歌詞は、ずっとダイイングメッセージのような感じはしてるんですけど、それを僕はポジティブなものだと思っていて。
先にある光がちゃんと見えるからこそ、今歌うとネガティブに見えてしまうというか。あるいは、目の前が光に見えるからこそ影も見えるし、今自分が掴めていないことに対する自分自身のジレンマがあるっていう。

届きたい場所、届けたいものがあるからこそ、届かないっていうことが見えてしまう。だから僕はとてもポジティブな人間なんですよ。

"多重人格"っていう言葉があるように自分の二重性みたいなものが誰しもあるよね、という話で、それはつまり"考え行動する自分"と"本当はこうありたい自分"とか"自分のなかで沸き起こる感覚に戸惑っている自分"といったものとの間で乖離が生じることがある、ということです。
そういった二重性が凛として時雨の主題としてありそうだと僕は思います。例えば歌詞中の「僕」と「君」はどちらも「自分」を指しているのですが、その「自分」は指示語が二つに"分裂"してしまっている、ということです。そう思って聞くと、今作のミニアルバムの世界観が真に迫ってくる感じがしました。MUSICAのインタビューでTKはこうも言ってました。

僕の場合は、何かが辛くて音楽をやってるわけじゃないので、ただ単純に、自分のなかに入り込んで入り込んでいく中で、そこで出会った自分と話して吐き出された言葉がこういう言葉であるっていう、そういう感覚なんですよね。

今回に関しては、実は自分が音楽を作り出すということに対してどういう感覚で作っているのか?ということをひとつテーマにしたところはあったのですよ。それで『es or s』っていうタイトルにしたところもあるんですよね。

今作のタイトル"es or s"って"es"はフロイトの云う無意識下の自我、"s"は主体を意味していて、それらと救難信号"SOS"とをかけたタイトルになっています。
今作は、いま一度自身を見つめてその過程とか自分の中に入り込んでいく状況をとてもリアルに描き出そうとしているように見えます。そして、それが救難信号なのかもしれないし、そうじゃないかもしれないっていう。
これまで自分の中から音楽を生み出してきて、まだ自分のなかに何が残っているのか?その危機感がSOSという形で表れているのかなと思いました。そして、インタビューにもあるように、自分の中への届かない所にネガティブには捉えていなくて、その辺を余計な感情の上塗り無しにありのまま伝えているから曲としての純度・美しさが表出してくるのかなとも思います。


このように、凛として時雨というグループは感覚でしか捉えきれないようなものに迫ろうとしていて、それが音楽として表現されているという印象をこれまでの曲から受けます。その世界観は内向的でいわば"閉じた世界"です。聴き手は(少なくとも私は)そういった表現世界に惹かれているのかもしれませんね。


ここまでつらつらと考察めいた駄文を書きましたが、凛として時雨の音楽は素直にかっこいいなと思います。
近々、ライブで聞けるのがとても楽しみです。www.amazon.co.jp