解毒される日常

東京の学生の日記、聞いた音楽の感想とか。

8月22日の日記

今日は14時に起きた。A氏のSlackの通知音に起こされた。彼女(A氏)は今日、院試の口頭試問で私の大学まで来ていたのだ。学科が違うので院試の雰囲気も違うだろうと思い、あまり深いアドバイスは出来なかったけど、本人の尽力と65万くらいのトーイック力でもって、鋭いツッコミもなくつつがなく終わったそう。

それから2人で遅めの昼食。カレー屋に行った。そのあと一旦別れて、後で合流しようということになったので、自分はひとまず大学の居室に戻って最低限やるべきメール処理を済ませ、図書館へ。

今日のうちにできればやりたかったこと(論文を読むとか)はあったのだけど、彼女との集合まであまり時間もなかったので、適当に本を読んで過ごした。ロシアの宇宙開発史に関する本の第1章まで読んだ。次に図書館に来ることがあればその続きを読もうと思った。

2人で自由が丘をブラブラした。途中、喫茶店で小休止しつつ、駅のそばのワインバー的な店で軽食をとった。帰り際に本屋に寄った、かねてから読みたかった中動態の本を買った。

帰宅してあれこれしていたら日付変わって午前1時だった。それから今日買った本を少し読んで午前3時手前となった。ある観点から見れば、断片的に明らかとされてきたことをまとめようとする本で、ジグソーパズルを組み立てているような面白さ、または謎解きをしているようなワクワク感のある本で、まだ初めの方しか読んでいないけど興味を掻き立てられる。

明日はこの続きを読みつつ論文も読もうと思う。

寝る。

8月21日の日記

ここんところ何もしたくなさが極まっていて今日は殆ど無為な一日を過ごしてしまったので、せめて自分が今日存在していたことを示すべく、ここに無為な一日を記録するものである。

起床したのは午前8時だった、その時間にアラームをかけていたからだ。でもすぐ二度寝三度寝に移った。その前日はなんやかんやで夜更かししていて寝たのは午前5時だった。n度目の起床を迎えスマホの時計を見たら午後4時だった。

ちょうどそのタイミングで宅配物が届いた。ポーランドのウォッカであるズブロッカをアマゾンで注文していたのだ。ちょうど今読んでいる小説に登場したので興味本位で買ってみた。草餅の良い匂いと味がする、一度友人宅で飲んだことがあったのでそのウォッカが特殊なものであることは知っていた。ところで、その小説を薦めてきたのもその友人だったので、彼もまたその小説を読んで買ったのだろうと推察される。

起床後、今日済ませておくべきこと(メールとか)はあったのだけど何もしたくなく、とりあえず空腹だったので食パン2枚を焼いて食べた。それから溜まっていた洗濯物を処理した。夕立が来る気配は珍しくなかった。コインランドリーの乾燥機に洗濯物を突っ込んで晩御飯の買い出しに向かった。この日は手の込んだものを作ろうという気分だった、普段は自炊すらしない癖に。ミンチが安かったのでハンバーグを作ることにした。

買い出しを終えて乾燥機から洗濯物を取りに向かい、ひと段落した。まだお腹が空かなかったので、次は部屋の掃除に取り掛かった。そうこうしているうちに午後9時頃になった。いよいよ今日済ませておくべきこと(メールとか、というかメール)を済ませておこう、という気分になった。こういう事はやろうと思えばあっという間だがやるまでに時間のかかるものである。

ハンバーグが完成したのは午後11時だった。久しぶりに自炊した割にはよくできた。私はそれをゆっくりと食べた。先ほどのズブロッカを思い出し、食後にオンザロックで飲んでみた。桜餅の匂いと味がした、ポーランドのお酒の筈なのに不思議なものである。久しぶりにテレビもちゃんと見た、でもすぐに飽きた。

四畳半神話体系というアニメを観た。後輩に薦められていたことをふと思い出したからだ。いわゆるループものアニメ、主人公の独白で進行する。京大生らしい言い回しが多くて若干親近感を持った、京大生じゃないけど。

一通り一気に観たら午前4時になっていた。そろそろ寝る時間である。

こうして僕の無為な一日が終わった。明日はもう少し有意義な一日でありたいと思う。とりあえず大学に行く、とか。もう少し早く寝る、とか。

 

ちなみに読んでいる小説はモームである。「人生が分からない」と言ったら薦めてくれた。

寝る。

the cabsのノスタルジア、過去を思い遣るということ

日本のロックバンドthe cabsがどうしようもなく好きだ。2013年に活動停止したのちの今に至るまで、自分のなかでその魅力が失われたことがない。

むしろ、バンドが解散して時間を経るごとに、その美しさは増したように感じる。2017年となっても。

それはまるで、いかなる思い出もやがて優しく美しいものに変容していくことに似ている。思い出は甘美であり、いつまでも思い出の海の中に浸ることを許してくれるかもしれないが、それは過去に過ぎず、"いまここ"に到来することはない。

 

the cabsの音楽は、聞き手に甘美な過去を走馬灯の様なものとして想起させる。それは聞き手固有の記憶というよりはthe cabsの世界観によってミキシングされた淡くぼんやりとしたものだ。そのような"風景"がthe cabsの音から、映像から、文章から立ち上がってくる。

そうして生成された回想的イメージは、時にクリーンなアルペジオとして、時に不安定な拍子として、時に慟哭として表現される。それらは、美しくおぼろげで"いまここ"に到来することのないものへと収斂していくのである。

 

ここで生起する感情は、いわゆるノスタルジー(郷愁)と同等のもののように思える。ノスタルジーをwikipediaで調べると、歴史的には1688年にスイスの医学生ヨハネス・ホウファーによって作られた概念とされている。ノスタルジーは、2つのギリシャ語nostos(帰郷)、algos(心の痛み)を基にした合成語で、「故郷へ戻りたいと願うが、二度と目にすることが叶わないかも知れないという恐れを伴う病人の心の痛み」とされた。ここで、故郷を過去と読み替えることができる。過去は"過去であること"によって現在に現れないことを保証している。この”過去の過去性”とも言えるこの機能によって、慟哭(シャウト)が生まれるのだと思う。

 

さきほど、the cabsの音や映像や文章から立ち上がるイメージがあると述べたが、これはpvのことを指している。例えば、"二月の兵隊"のpvは映像制作までバンド(ボーカル)が担当しているので、参考になると思う。

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このpvは、全体的にパステルカラーで構成され、断片的な映像が時にぼやけた状態のものを含みながら転換していく。影の効果的な使い方や文章の挟む手法などは見事だ。

pv終盤では畳み掛ける音と断片的な映像の切り替わりは、見る人に走馬灯のような印象を与えると考えられる。また、ポラロイドカメラで撮影したような日焼けした映像も、先ほど述べた回想的イメージの要因の一つだと思える。この映像スタイルは"anschluss"のpvでより顕著となる。

youtu.be

 

ここまでthe cabsのノスタルジックさが魅力の原点にあるということを述べてきたが、解散した今となってもここまで自分の中で求心力を持っているのには理由がある。

それは、このバンドの音楽を通じて"過去を思い遣る"ことができるからだと思う。

どんな人にも、ひどい思い出だったり、できれば思い出したくないのに現実に刻み込まれたものが少なからずあったりするものだ。震災の記憶もその一つだろう。そんな現実のなかで、我々は過去とも折り合いをつけながら生きていかなければならない。

the cabsの表現は、過去を思い遣る音楽だと思う。それは、これからの時代においてー色褪せているがゆえにー色褪せることのない価値と強度を持った音楽なのだと思う。

 

と、今更ながらthe cabsについて振り返ってみた。というより、勢いで感想的なものを書きなぐった。the cabsという現象についてはもう少し推敲の余地があると思っているので、また機会があったら批評的なものを書きたい。 österreichについては過去のエントリで(雑多ながら)書いたので、ご参照ください。

終わり。

ヤバいTシャツ屋さんの「ヤバみ」を雑に深読みする

久しぶりです。

ヤバいTシャツ屋さん(以下ヤバT)にハマったので、最近リリースされたシングル曲の「ヤバみ」についてなんか感想的なものを書こうと思います。

ちなみにちょっと深読みです、妄想も入ってます。

個人の見解です、自分にはそう見えるというだけです。

 

youtu.be

このバンドの概要を雑に説明すると、

メロコアな曲の雰囲気がめちゃくちゃカッコいい。この曲もそう。

②曲名とか歌詞とかpvもそうですが、ギャグ要素がそこらじゅうに散りばめられています。これが普通に面白いんですよね。下手なお笑いより面白いかもしれない。

って感じです。

つまり、がっつりメロコアで聞く人を惹きつけつつ、ギャグ要素で楽しく聞かせるバンドということになると思います。

 

さて、「ヤバみ」についてですが、これまたカッコいいんですよ。CD買いましたもん、DVDめっちゃ面白かった。それで、「ヤバみ」を聞きながら、ヤバTがどういうバンドなのかと、この曲は何なのか考えてみました。

 

ヤバTが革新的だなと思うのは、聞き手からの消費のされ方を意識している感がありつつ、それを聞き手に意識させずに楽しませられるポテンシャルがあるところです。

例えば「ヤバみ」の序盤、英語でかっこよさげな感じで歌ったあとに、

いっぱい英語で歌ってみたけどあんまり意味ないよ

と来ます。これってメロコアの消費のされ方の一側面を暴いているように思えます。

つまり、メロコアの消費のされ方が曲の雰囲気だけに依存していて、歌詞の中身は正直どうでも良いことに自覚的である、ということです。さらに重要な点は、その自覚的な態度を歌詞や曲名などあらゆる点で表明していること、つまりメタな表現をしていることです。ヤバTのこれまでの曲で、「メロコアバンドのアルバムの3曲目ぐらいによく収録されている感じの曲」があるのも頷けます。

こういうメタな振る舞いをすることによって、「なんかよく分からないけどとりあえず曲にノって楽しむ」ことを促すことになります。言い換えれば、聞き手に曲の中身がないことを自覚させたうえで享楽に身をゆだねさせるわけです。さらに、ギャグ要素によってこの享楽的な部分が増幅されます。

「ヤバみ」というのは、頭を空っぽにして曲のカッコよさ・面白さを感じた結果生まれる(小学生並の)感想だと言えるかもしれないですね。

 

ここまで聞いて「じゃあヤバTはバカ向けの音楽なの?」と思われるかもしれませんが、そういうことではなくて、純粋に曲のカッコよさ・面白さを感じることのできる"開かれた"音楽だというのが、私の言いたいことです。

完成度の高い演奏がメタな表現と諧謔さを支えているのです。アートとしてよくできていると感じます。すごいバンドだと思います。

 

「ヤバみ」についてもう少し見ていくと、色んな見方ができそうだと感じました。例えば、

「歌詞に意味がないと!」「説得力がない!」

もうそんな時代じゃない!?

 この部分は自身の音楽を自己肯定しているように取れます。これは推測ですが、これまでヤバTって歌詞の中身の無さでdisられてきたんじゃないかと思うのです。あるいはコンプレックスみたいなものを抱いていたのではないか。そんな中で、歌詞に意味がなくてもよいと歌い上げることで、自分たちを肯定するだけでなく、聞き手をも肯定しているのだと思えます。

加えて、この部分って音楽シーン全体への表明とも聞こえるので、とらえ方によってはかなり挑発的だとも取れます(そもそも音楽シーンなんてあるのかよく分かりませんが...)。「必ずしも歌詞に意味を持たせる時代じゃなくね!?」みたいな。メジャーデビューしたわけですし、ある程度説得力はあるかもしれません。

あと、このフレーズも面白いです;

「理解できないものばっかり流行っていく!!!」 

いつまで置いていかれちゃってんの 

 この部分の主語が誰なのかよく分からないんですよね。聞き手とも取れるし、音楽シーンとも取れるし、はたまたヤバT自身のことかもしれない。個人的には、歌詞中で「follow me」とか言ってるし、聞き手へのメッセージだと思っています。

 

最後に、ここまで書いてて思ったのですが、アニメと邦ロックを比較すると面白いかもしれないですね。ヤバTはこれまでのバンドの表現とは本質的に別路線(他に似たようなバンドがあったらすいません)で、なんというか、セカイ系に対する日常系みたいなポジションなのかもしれないです。最近のアニメ自体、消費のされ方を前提として作られているので、その点に通じるものがあると思ったります。

 

なんかごちゃごちゃ言ったけど、ヤバTの音楽は本当に楽しいのでぜひ聞くと良いです。

終わり。

Aimerのinsane dream / us を聞いた。

とても良かった。どの3曲も素晴らしかった。

 

今日、新宿のタワレコをぶらついていたらTKが楽曲提供していると書いてあったので、そのままジャケ買いした。Aimerは残響のテロルのEDで初めて聞いて、それっきりだった。その時はハスキーで特徴的な声だなーという印象でそれからちょっと気になっていたので、今回ようやく彼女のCDに手を伸ばすことができた。それゆえに、Aimerに対して私のなかでは「誰か、海を。」の印象が前提にあって、バラード調なものが合うアーティストなのだろうと思っていた。この歌い手とTKの楽曲が合わさるとどんな歌になるのか、とても楽しみだった。

 

1曲目、insane dreamはワンオクのTAKAが楽曲提供している。そういえばしばらくワンオク聞いてないなぁと思いながら聞いていたけど、確かにワンオクのサウンドである。サビ(?)の日本語の歌詞と英詞が呼応している所のノリがまさに、という感じ。最近の洋楽の影響を受けているようにも感じた。バックの音楽がとても太く、これはこれでボーカルと噛み合っていて良いと思った。

2曲目、us。こちらは時雨のTKが楽曲提供をしている。これは本当に凄いと思った、終盤を聞いてて鳥肌が立つくらいに。仄暗く静かに曲が始まり捻じれて歪んだギターサウンドとボーカルの白く透明な声が混じり合っていく。終盤でそれらが激情的なサウンドへと収斂していく、この流れはTKのサウンドだなあと思った(とても良い)。TKの曲はたくさん聞いてきたけど、今回の曲は「地球」とか「宇宙」とかスケールが大きい。この大きい存在の下で「僕ら/私たち」が対比されることで、その存在の小ささが際立って見える。また、「この空の藍(アイ)が赤く染められているなんて」というフレーズが印象的だった。赤く染められているという言葉が指すのが血なのだと思って聞くと、そういうことなのかなと思ってしまった(何が)。

3曲目、toneはAimerオリジナルの曲。これは過去の自分と向き合う曲なのだろう。今の時点から過去の自分を眺めているような。この曲を聴きながら、そういえばワンオクはNobody's homeとかで過去と向き合っていたし、TKはソロ曲のいくつかがそういう曲だと思っていた。この3曲目を聞いて、今回のCDの構成がこの3人であることに何となく納得していました。

以上、久しぶりに曲を聞いてこれはと思ったので書きなぐりました。

これをきっかけに、Aimerの過去作も聞いてみようと思います。

 

 

と、久しぶりに日記を更新してみました(約300日ぶり!)。

最近はエレクトロニカを延々と聞いてました。matryoshkaとかkashiwa daisukeとか。

the cabs は最近めっきり聞かなくなってしまいました。が、ボーカルの方が元気そうなのは何より(?)です。

前回の更新までの間に、時雨のコンサートに二回行きました。コンサートはそれ以外だとクラシックで、リゲティとかブルックナーを聞きに行ったり。今年は武満のメモリアルな年なので、何か聞きに行きたいと思っている。

凛として時雨「es or s」を聞いて思ったこと:時雨の分裂性とか

自分が何らかの感情・感覚を抱いた時に、それがどこから湧いたものなのか考えてみると、自分の中にもう一人"ほんとうの自分"のような存在が源泉としているように思えるかもしれないし、もしかすると自分の抱いた感情・感覚は余所から持ってきたものであってそれを自分のものだと錯覚しているのだとも思えるかもしれません。
そして、前者の"自分のなかに潜む存在"に近づこうとすればするほどその輪郭はぼやけていってしまい、その存在を上手く描くことはできません。

そういった"届かなさ"だったり"届かないことからくる葛藤"をこれまで凛として時雨は音楽として表現してきたのかな、と今作を聞いて思いました(以下、MUSICA9月号のインタビューより引用)。

まあ僕の歌詞は、ずっとダイイングメッセージのような感じはしてるんですけど、それを僕はポジティブなものだと思っていて。
先にある光がちゃんと見えるからこそ、今歌うとネガティブに見えてしまうというか。あるいは、目の前が光に見えるからこそ影も見えるし、今自分が掴めていないことに対する自分自身のジレンマがあるっていう。

届きたい場所、届けたいものがあるからこそ、届かないっていうことが見えてしまう。だから僕はとてもポジティブな人間なんですよ。

"多重人格"っていう言葉があるように自分の二重性みたいなものが誰しもあるよね、という話で、それはつまり"考え行動する自分"と"本当はこうありたい自分"とか"自分のなかで沸き起こる感覚に戸惑っている自分"といったものとの間で乖離が生じることがある、ということです。
そういった二重性が凛として時雨の主題としてありそうだと僕は思います。例えば歌詞中の「僕」と「君」はどちらも「自分」を指しているのですが、その「自分」は指示語が二つに"分裂"してしまっている、ということです。そう思って聞くと、今作のミニアルバムの世界観が真に迫ってくる感じがしました。MUSICAのインタビューでTKはこうも言ってました。

僕の場合は、何かが辛くて音楽をやってるわけじゃないので、ただ単純に、自分のなかに入り込んで入り込んでいく中で、そこで出会った自分と話して吐き出された言葉がこういう言葉であるっていう、そういう感覚なんですよね。

今回に関しては、実は自分が音楽を作り出すということに対してどういう感覚で作っているのか?ということをひとつテーマにしたところはあったのですよ。それで『es or s』っていうタイトルにしたところもあるんですよね。

今作のタイトル"es or s"って"es"はフロイトの云う無意識下の自我、"s"は主体を意味していて、それらと救難信号"SOS"とをかけたタイトルになっています。
今作は、いま一度自身を見つめてその過程とか自分の中に入り込んでいく状況をとてもリアルに描き出そうとしているように見えます。そして、それが救難信号なのかもしれないし、そうじゃないかもしれないっていう。
これまで自分の中から音楽を生み出してきて、まだ自分のなかに何が残っているのか?その危機感がSOSという形で表れているのかなと思いました。そして、インタビューにもあるように、自分の中への届かない所にネガティブには捉えていなくて、その辺を余計な感情の上塗り無しにありのまま伝えているから曲としての純度・美しさが表出してくるのかなとも思います。


このように、凛として時雨というグループは感覚でしか捉えきれないようなものに迫ろうとしていて、それが音楽として表現されているという印象をこれまでの曲から受けます。その世界観は内向的でいわば"閉じた世界"です。聴き手は(少なくとも私は)そういった表現世界に惹かれているのかもしれませんね。


ここまでつらつらと考察めいた駄文を書きましたが、凛として時雨の音楽は素直にかっこいいなと思います。
近々、ライブで聞けるのがとても楽しみです。www.amazon.co.jp

緩やかな嘔吐

ここが天国か地獄か、といわれたらどちらかといえば天国なのだろう。

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österreich「無能」についての覚えがき

自分なりにösterreich、もとい高橋國光(以下、國光)作曲の「無能」について解釈してみました。

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